1月10日

 たしか一昨日の夜。オーストラリアに住んでいて、朝5時からの生活の様子を動画に収めている女の人のチャンネルを見つけて、身支度や食事の間に再生している。余裕を持って生活することも、丁寧な態度で人やものに向き合うことも、自分を癒すための行動だと最近とくに思う。

 一昨日、友達とそういう話をした。どうしたらそうできるんだろうと言うのに対して、「なにかを自分に憑依させるんだよ」と伝えたのだった。こういうとき○○ちゃんならこうするはず、と思うと、言動が変わってくる。私はあまり、そういうことはしないけど。

 一日に百回はあるであろう、ふと我に返る瞬間。こんなにも雑多で性急なのは一体誰のためなんだろうと思う。

 

 ふと思いついて、おばあちゃんにメールを送った。文字数制限があるなか、この間会えてうれしかったこと・週末から急に寒くなったこと・毛糸の靴下を履いていることを伝えた。すぐに返信がきたと思えば、叔母による代筆だった。祖母は、もうメールを読めても作ることはできないと聞いて、冷たいなにかが胸を掠めるような感覚に陥った。

 最後にもらったメールはどんな内容だっただろうと遡ったけどiPhoneには残っておらず、幸いMacにはなぜかあった。このあとはもう、メールをしたら電話をくれるようなやりとりで、平日の通勤時間帯でも平気でかけてくるものだから、私も電車のなかで応答したりした。それが億劫になったのか、それ以外の大事に見えることが増えすぎたのか忘れたけど、最近はメールもしていなかった。ばかだよね、いつこういう空白期間とか、しなかったこととか、他の消したい・くだらないことと一緒に大切なメールまで消したこととかを、ものすごく悔やむんだと思う。

 こんなことを書いているのに、もう一人の祖母にメールを送ろうともしない。最後に会ってから、あっという間に3年以上も経った。